レモンと塩

好きなこといろいろ

はじまりのつきのおわり

9月が終わる。

このあいだ妹に言われて気付いたんだけれど、わたしの一年はもしかしたら9月始まりなのかもしれない。

この数年、ターニングポイントがあったのも大切な思い出ができたのも、わりと9月だった。
自分にとって9月は、何かが変わったり始まったりする特別な月になっている気がする。

ちょうど動きやすい気候だとか、自分が行きたいようなイベントが多いとか、夏の未練を慌ててどうにかしようとしがちだからとか、ひとつ歳を重ねる前に何かやっておかないとと焦るからとか、いろんな理由はあるような気がするけど、とにかくこの季節のこの空気になると、「ああ、あれは何年前の9月…」と思うのだ。


父が亡くなったのも9月だった。
あの日は、あの日の前後を含めた一週間くらいは、わたしの人生にとってあまりにも大きな日々だった。何度も何度も何度も頭の中で繰り返した。わたしの一部はあの日々の中に未だに取り残されていて、終わらないあの9月をぐるぐる生きている。

止まっているわけにいかないから、決意を新たに動き出すのが9月なのかもしれない。
いつまでもこうしているわけにはいかないと、改めて思うのが9月なのかもしれない。


さて今年の9月はというと、仕事がちょうど忙しいタイミングだったので、仕事だけでいっぱいいっぱいになっていた。
日数も時間数も少ないし、業務内容もそんなに難しいわけでもない、みんなの仕事に比べたらわたしのなんて小遣い稼ぎ程度のお仕事ごっこだ、と卑下するような気持ちがずっとあったが、ここを越えてみて、わたしは決して楽な仕事をテキトーにやっているわけではないし、これだって遊びじゃない立派な仕事だとようやく思えた。
日数も時間数も少ないけど、わたしは楽してるわけじゃない、これが今の自分にできる精一杯なんだし、それなら頑張ってるって認めていいはず、とも思えた。

なにしろ、去年の9月は働いてなかった。
少しでも働けていて、自分の稼いだお金で何かができているなら、上出来でいいじゃない。


もうすぐ10月になる。
わたしは、またひとつ歳を重ねる。

夏の街と喫茶店

8月になったその日、ずっと行ってみたかった喫茶店に行った。

何年か前にテレビで、ホットケーキのおいしい喫茶店として紹介されたときに知った店。
江戸川区の平井という駅から歩いてすぐだという。


その日は最高気温が36度にもなると予想されていて、なのに自宅のエアコンは壊れていて、「今日は家にいたら命が危ない」と思った私は、冷たいシャワーを浴び、適当な服をひっかけて、行き先も決めないまま家を飛び出した。

とりあえず一時間くらい電車に乗ろうと、都心まで乗り換えなしで行ける電車に乗った。涼しい電車の中でヒジを冷やしながら、それで一体どこまで行こうかなとぼんやり考える。
窓の外は、目が痛くなるほど強く太陽が照りつけていて、景色の白が目に焼き付いた。

とにかく、あまり知らない街に行きたくて、そういえばあの店のクリームソーダは青かったはずと思って、この機会に平井の喫茶店に行くことを決めた。




平井は、知らない人たちの知らない生活がある街だった。

駅前で立ち話をしているあのおじさんたちは、もう何十年もこの街の夏を経験しているのかもしれない。
私にとっては初めて来る街で、初めて見る夏だ。知らない街の夏を感じられて、言いようもなく心がワクワクした。


夏は、知らない街の姿をしているし
夏は、知らない街の匂いをしている。

初めて見る街の景色、そこで生活している人たち、聞いたことのない名前のチェーン店、通りがかった路地の静けさ。
誰かにとっての変わり映えのしない毎日が、私にとっては初めて見るもので、それをこうして覗くとき、夏がグッと私に近づいてくる。

そのとき「私は今、夏のなかにいる」と思える。


茶店のドアを開くと案外若い人が多くいて、彼らも私と同じようにテレビで知ったんだろうか、それともSNSで知ったんだろうか、などと思う。

適当に空いている席に座って、注文をする。クリームソーダとホットケーキ。決めていたはずだ ったけど、フレンチトーストも捨てがたかったので、結局少し悩んだ。

店内のテレビを見ながらホットケーキの焼けるのを待っていると、あまり考えずに選んだ席が、冷房の風とタバコの煙が直撃する位置だったことに気づいて、お店のお母さんに断り、席をかえさせてもらった。

移ったのは深緑色のソファで、夏の日差しが透けるすりガラスと向かい合う、一番奥まったところの席。
ここちょっと暑いですけど大丈夫?と訊かれて、大丈夫です、と答えて腰を下ろす。ぼんやりあたたかくて、扇風機の風が時折来て、このくらいがちょうどよかった。


クリームソーダが運ばれてきたときに思った「やっぱり今日、ここに来てよかった」という、あまりにも明るくて爽やかな確信が、今思い出しても笑ってしまいそうになる。
あれはきっと私のクリームソーダだ、私のクリームソーダが運ばれてくるぞ、とワクワクしてしまったのも面白かった。

シュワシュワ弾けて透ける青に、小さな氷がたくさん入って、丸いバニラアイスがのっている。シンプルで、でも、それがとても嬉しかった。
青い空に白い雲、青い海に白い砂浜、夏のイメージ図が注がれたグラス。やっぱり今日はこのクリームソーダに出会うべき日だった、と思った。


最近気づいたんだけど、私はなぜか青いクリームソーダが好きだ。
緑が一般的なんだろうと思うし、もちろん緑も好きなんだけど、青がたまらなく好きだ。
昔“メロン味”が苦手だったせいかもしれないし、子供の頃好きだったクリームソーダ味のアイスが、水色のアイスキャンデーの中にバニラアイスが入っているものだったからかもしれない。私の好きなクリームソーダは青い。


クリームソーダを写真におさめていると、あっという間にグラスが汗をかき、アイスの表面が溶け始める。
そうしているうちに、すぐにホットケーキもやってきた。焼きたてのいい香りの中で、バターが暑そうにツヤツヤしている。
もう写真を撮るのもそこそこに、クリーム ソーダをひとくち飲んで、銀の細長いスプーンでアイスもひとくち、ホットケーキのバターを二段目にも塗って、ナイフとフォークでひとくち分を切る。

頬張ったホットケーキの香りは、私がいつも焼くホットケーキミックスのものとは全然違って、母から教わったホットビスケットの焼きたての香りに似ていた。幼い頃からよく台所に漂っていた、あの香り。甘い匂いのついていない、焼けた小麦粉のいい香り。

ここのホットケーキは、甘い食べ物でも、しょっぱい食べ物でもなかった。噛みしめると小麦がほんのり甘いけれど、バターの塩気とシロップの甘さで食べるとおいしいけれど。
ホットケーキ自体は「ふかふかした、小麦粉の、焼いたおいしいやつ」というシンプルさで、それがとても良かった。
シンプルでどこか懐かしくもあるんだけれど、とても繊細で、絶妙で、ごまかされていなかった。

クリームソーダはこの上なく夏だったし、ホットケーキは、「あなたとは今日初めて会ったのに、なんだか昔から知ってるみたいな感じがして、仲良くなれそうね」という味がした。私の片思いかもしれないけど。


ぺろりとホットケーキをたいらげたあと、クリームソーダを飲みながら少しぼーっとする。
すりガラスの向こうから真昼の暑さが染み込んできて、じんわり汗をかいた。夏なんだな、としみじみ思いながら、小さな氷とアイスが一緒になったものをスプーンですくってガリガリと食べる。

夏の暑さを忘れるほど涼しいところに長くいすぎたのかもしれない。いつもの夏は、外が暑いことを忘れるほど涼しくてカラッとした室内にいた。

エアコンが壊れたら夏が戻ってきた。イヤというほど近くにいてくれる。それに、私が知ってるのより何倍も強烈な暑さになっていた。



帰りに平井の駅に立って、暑いけれど爽やかな風を浴びる。
この風はきっと、私の知らないところから吹いてきている風。今立っているここも、今日このときまで、来たことがなかった駅のホーム。



いい夏が始められたなと思った。

今日がいつか「あの夏の日」になってくれる気がした。

絵日記を青く塗りたくなるような、夏の一日だった。


天国では海の話を

大学の長い夏休みの終わりに、友達と小さな旅に出た。

二人が好きな映画のように、海を見に行きたくて。私達が乗ったのは水色のベンツではなく、鈍行列車だったけど。


初めて乗る路線の電車が、知らない街をどんどん進んで、帰れない旅のような気持ちになった。
乗り換えの駅で気まぐれに途中下車したら、次の電車は一時間後だった。

海辺の駅へは昼過ぎに着き、お惣菜屋さんで買ったコロッケを食べながら海岸を目指す。
民家の開け放たれた窓から、新学期が始まったばかりで早く帰って来たのであろう、小学生の声が聞こえた。


山を貫く、ひんやり湿った暗いトンネルの先に、白い砂浜と青い海が待っていた。
想像以上に天国めいていて、友達と砂浜に座り「もしかしたら私達、もう死んでるのかも」と笑った。


友達と出会い、あの映画を観たから、あの海へ行った。

この先どんなに美しい海を見たとしても、私にとって、あの日の海に勝るものはない。

あなたと私が違うということ


当たり前のことなんだけど、私と全く同じ人間はいない。

色んなことを話せて考えの合う友達でも、ずっと一緒に暮らしてきた仲の良い妹でも違うし、お互いのことを一番わかっているような気がしている、母と私でも違う。

「違うところがいっぱいある」というより、「基本的に全部違う」と思うべきなんだろう。
その違うという前提があって「でも、ここは同じだね」というところを見つけるから、見つけたと感じるから、私たち気が合うね似てるね、となるわけだ。

何を今更そんな当たり前のことを、と思うかもしれないけれど、自分でも当たり前にそういうものだよなと思って生きてきてはいたけれど、それを本当の意味で実感できてはいなかったのかもしれないと気づいたのが、この6月のこと。


6月、「ああ、私とこの人は違うんだな」とはっきり感じる瞬間が、いくつかあった。

妹に対してと、仲の良い友達に対して、ほぼ同じような時期に思ったんだけど、二人ともなんとなく「この人ならわかってくれるだろう、趣味も似てるしこれも共有できるだろう」と無意識に思って接していた相手だった。
でも、そうではなかった。当たり前だ、違う人間なんだから。

私が好きなものを妹が好きになるとは限らないし、私と同じ行動を友達もするとは限らない。
それは今までにも何度もあったことだったし、わかっていたことなのに、なぜかこの6月になって急に「そうか、そうだよな」と、突然腑に落ちたみたいに実感を伴ってやってきた。私が急にそう感じる状態になったのかもしれない。

でも、その実感がもたらしたのは「私たちは違うのか…」という深い絶望でも悲しみでもなくて、なんていうか、ちょっと驚いて「おお、そうか、」と言うくらいのものだったんだけど。

妹とこのことについて話していたとき、妹は「私は、お姉ちゃんと私は違うんだなって感じるとき、やっぱりちょっと悲しいかな」と言っていた。その気持ちも痛いほどわかるけれど、いつか彼女が悲しいと感じなくなる日がくればいいと思う。
彼女と私は違う人で、彼女と私はどちらも素晴らしい。違うけれど、それはわかり合えないこととイコールではない。悲しむことなんて、ありはしないのだから。なんて。


私がこう思えたことが一体なにを意味するのかと言ったら、多分だけど、私は少しずつ他人に過剰な期待をしたり、自分を押し付けたりしなくなっていけるのかもしれない、という予感だ。

「あなたと私は違う。だから、まあ、そういうこともあるよね」みたいな、いい感じのあきらめ。
私にはその「あきらめること」ができなくて、これをできるようにならないといけないと10代の頃から最近までずっと思っていた。なんなら今でも思う。でも、その「ほどよくあきらめること」が、もしかして少しずつだけど、できるようになりつつあるのではないかという、かすかな予感だ。

同じ人間なんだからわかるはず、伝わるはず、と思うのは程々にしないと人間関係が上手くいかなくなる。実際にそれで自分は苦しんだし、相手にもたくさん迷惑をかけて嫌な思いをさせた。
確かに同じ“人間”という生き物かもしれないけど、“同じ人間”ではないんだから、無理なことなんていっぱいある。最初から何もかもあきらめるのは寂しいし嫌だけど、最後までこだわり続けるのもお互いしんどい。いい具合の、ここまでだなという気持ちの引き際を知っておきたい。

色んなことに対する、自分にとっての“ほどよい”ところを、こんな風に見つけていきたいな。
そういえば「今年の目標は『ほどよく生きる』にしよう」なんて、1月頃に言ってた。


ほどよいところを探し続けよう。
それはなんだか、自分を好きになっていくことと似ている気がするから。


炎と向き合う

五月分として書いてあったんだけど、投稿するのを忘れてた。



五月、悲しいことにゴールデンウィークに入った途端に体調を崩した。
これは体調管理云々じゃなくて周期の問題だったんだけど、つらかった。迷惑をたくさんかけて、楽しい予定が半分以下に減って、情けなくてお布団の中で色んな人に謝りながら泣いた。


それから、思いがけないことをきっかけに、自分の中の“怒り”や“正義感”というものを見つめ直す期間に入ってしまった。
しんどい作業だけど、定期的にしないといけないことだとも思っている。

私は怒りというか、自分の正義感や「それは違う、おかしい」と思う気持ちがボッと強く燃え上がる瞬間というのを、日々の中に多く持っている。
昔からそのせいで人間関係のトラブルもいくつかあったし、これは明確に私の短所であり、でも、上手く付き合っていければ長所にもなるものだと思っている。そのためにはコントロールできるようにしておかないといけないし、常に確認して見つめて向き合って更新したり改めたりする必要がある。

怒りといっても何にでも怒るとか、常に怒ってるとか、すぐ怒鳴るとか、そういうんじゃなくて、自分の中の正義とか信念に反するものに対して「それはどうなの…?」と思い始めると止まらないという感じのもので、でもやっぱり、自分の周りの人から比べると、言葉や行動にその“怒り”の感じが出てしまうことが多いと思う。本人に直接その場で言わないと気が済まないとか、おかしいよね?って人に話しちゃうとか。あと多分、その「今のおかしくない?それはどうなの?」って思うときの反応速度もわりと速いのかもしれない。

今は、自分の持つこの炎の噴き上がる火口みたいなものを、全部言葉にする気力がないけど、頭の中はこれについての考えばかりがぐるぐるしていて、自分を嫌いになったり、でも自信があったり、だからこそ好きなんだよなと確認したり、でもやっぱり気を付けないとと反省したりで忙しい。
この炎とは一生向き合っていかないといけない。


今月は明るかったけど心が重かった。
この季節が大好きなのに、なんだかそれどころじゃなかったな。