レモンと塩

好きなこといろいろ

あなたと私が違うということ


当たり前のことなんだけど、私と全く同じ人間はいない。

色んなことを話せて考えの合う友達でも、ずっと一緒に暮らしてきた仲の良い妹でも違うし、お互いのことを一番わかっているような気がしている、母と私でも違う。

「違うところがいっぱいある」というより、「基本的に全部違う」と思うべきなんだろう。
その違うという前提があって「でも、ここは同じだね」というところを見つけるから、見つけたと感じるから、私たち気が合うね似てるね、となるわけだ。

何を今更そんな当たり前のことを、と思うかもしれないけれど、自分でも当たり前にそういうものだよなと思って生きてきてはいたけれど、それを本当の意味で実感できてはいなかったのかもしれないと気づいたのが、この6月のこと。


6月、「ああ、私とこの人は違うんだな」とはっきり感じる瞬間が、いくつかあった。

妹に対してと、仲の良い友達に対して、ほぼ同じような時期に思ったんだけど、二人ともなんとなく「この人ならわかってくれるだろう、趣味も似てるしこれも共有できるだろう」と無意識に思って接していた相手だった。
でも、そうではなかった。当たり前だ、違う人間なんだから。

私が好きなものを妹が好きになるとは限らないし、私と同じ行動を友達もするとは限らない。
それは今までにも何度もあったことだったし、わかっていたことなのに、なぜかこの6月になって急に「そうか、そうだよな」と、突然腑に落ちたみたいに実感を伴ってやってきた。私が急にそう感じる状態になったのかもしれない。

でも、その実感がもたらしたのは「私たちは違うのか…」という深い絶望でも悲しみでもなくて、なんていうか、ちょっと驚いて「おお、そうか、」と言うくらいのものだったんだけど。

妹とこのことについて話していたとき、妹は「私は、お姉ちゃんと私は違うんだなって感じるとき、やっぱりちょっと悲しいかな」と言っていた。その気持ちも痛いほどわかるけれど、いつか彼女が悲しいと感じなくなる日がくればいいと思う。
彼女と私は違う人で、彼女と私はどちらも素晴らしい。違うけれど、それはわかり合えないこととイコールではない。悲しむことなんて、ありはしないのだから。なんて。


私がこう思えたことが一体なにを意味するのかと言ったら、多分だけど、私は少しずつ他人に過剰な期待をしたり、自分を押し付けたりしなくなっていけるのかもしれない、という予感だ。

「あなたと私は違う。だから、まあ、そういうこともあるよね」みたいな、いい感じのあきらめ。
私にはその「あきらめること」ができなくて、これをできるようにならないといけないと10代の頃から最近までずっと思っていた。なんなら今でも思う。でも、その「ほどよくあきらめること」が、もしかして少しずつだけど、できるようになりつつあるのではないかという、かすかな予感だ。

同じ人間なんだからわかるはず、伝わるはず、と思うのは程々にしないと人間関係が上手くいかなくなる。実際にそれで自分は苦しんだし、相手にもたくさん迷惑をかけて嫌な思いをさせた。
確かに同じ“人間”という生き物かもしれないけど、“同じ人間”ではないんだから、無理なことなんていっぱいある。最初から何もかもあきらめるのは寂しいし嫌だけど、最後までこだわり続けるのもお互いしんどい。いい具合の、ここまでだなという気持ちの引き際を知っておきたい。

色んなことに対する、自分にとっての“ほどよい”ところを、こんな風に見つけていきたいな。
そういえば「今年の目標は『ほどよく生きる』にしよう」なんて、1月頃に言ってた。


ほどよいところを探し続けよう。
それはなんだか、自分を好きになっていくことと似ている気がするから。