夏の街と喫茶店
8月になったその日、ずっと行ってみたかった喫茶店に行った。
何年か前にテレビで、ホットケーキのおいしい喫茶店として紹介されたときに知った店。
江戸川区の平井という駅から歩いてすぐだという。
その日は最高気温が36度にもなると予想されていて、なのに自宅のエアコンは壊れていて、「今日は家にいたら命が危ない」と思った私は、冷たいシャワーを浴び、適当な服をひっかけて、行き先も決めないまま家を飛び出した。
とりあえず一時間くらい電車に乗ろうと、都心まで乗り換えなしで行ける電車に乗った。涼しい電車の中でヒジを冷やしながら、それで一体どこまで行こうかなとぼんやり考える。
窓の外は、目が痛くなるほど強く太陽が照りつけていて、景色の白が目に焼き付いた。
とにかく、あまり知らない街に行きたくて、そういえばあの店のクリームソーダは青かったはずと思って、この機会に平井の喫茶店に行くことを決めた。
平井は、知らない人たちの知らない生活がある街だった。
駅前で立ち話をしているあのおじさんたちは、もう何十年もこの街の夏を経験しているのかもしれない。
私にとっては初めて来る街で、初めて見る夏だ。知らない街の夏を感じられて、言いようもなく心がワクワクした。
夏は、知らない街の姿をしているし
夏は、知らない街の匂いをしている。
初めて見る街の景色、そこで生活している人たち、聞いたことのない名前のチェーン店、通りがかった路地の静けさ。
誰かにとっての変わり映えのしない毎日が、私にとっては初めて見るもので、それをこうして覗くとき、夏がグッと私に近づいてくる。
そのとき「私は今、夏のなかにいる」と思える。
喫茶店のドアを開くと案外若い人が多くいて、彼らも私と同じようにテレビで知ったんだろうか、それともSNSで知ったんだろうか、などと思う。
適当に空いている席に座って、注文をする。クリームソーダとホットケーキ。決めていたはずだ
ったけど、フレンチトーストも捨てがたかったので、結局少し悩んだ。
店内のテレビを見ながらホットケーキの焼けるのを待っていると、あまり考えずに選んだ席が、冷房の風とタバコの煙が直撃する位置だったことに気づいて、お店のお母さんに断り、席をかえさせてもらった。
移ったのは深緑色のソファで、夏の日差しが透けるすりガラスと向かい合う、一番奥まったところの席。
ここちょっと暑いですけど大丈夫?と訊かれて、大丈夫です、と答えて腰を下ろす。ぼんやりあたたかくて、扇風機の風が時折来て、このくらいがちょうどよかった。
クリームソーダが運ばれてきたときに思った「やっぱり今日、ここに来てよかった」という、あまりにも明るくて爽やかな確信が、今思い出しても笑ってしまいそうになる。
あれはきっと私のクリームソーダだ、私のクリームソーダが運ばれてくるぞ、とワクワクしてしまったのも面白かった。
シュワシュワ弾けて透ける青に、小さな氷がたくさん入って、丸いバニラアイスがのっている。シンプルで、でも、それがとても嬉しかった。
青い空に白い雲、青い海に白い砂浜、夏のイメージ図が注がれたグラス。やっぱり今日はこのクリームソーダに出会うべき日だった、と思った。
最近気づいたんだけど、私はなぜか青いクリームソーダが好きだ。
緑が一般的なんだろうと思うし、もちろん緑も好きなんだけど、青がたまらなく好きだ。
昔“メロン味”が苦手だったせいかもしれないし、子供の頃好きだったクリームソーダ味のアイスが、水色のアイスキャンデーの中にバニラアイスが入っているものだったからかもしれない。私の好きなクリームソーダは青い。
クリームソーダを写真におさめていると、あっという間にグラスが汗をかき、アイスの表面が溶け始める。
そうしているうちに、すぐにホットケーキもやってきた。焼きたてのいい香りの中で、バターが暑そうにツヤツヤしている。
もう写真を撮るのもそこそこに、クリーム
ソーダをひとくち飲んで、銀の細長いスプーンでアイスもひとくち、ホットケーキのバターを二段目にも塗って、ナイフとフォークでひとくち分を切る。
頬張ったホットケーキの香りは、私がいつも焼くホットケーキミックスのものとは全然違って、母から教わったホットビスケットの焼きたての香りに似ていた。幼い頃からよく台所に漂っていた、あの香り。甘い匂いのついていない、焼けた小麦粉のいい香り。
ここのホットケーキは、甘い食べ物でも、しょっぱい食べ物でもなかった。噛みしめると小麦がほんのり甘いけれど、バターの塩気とシロップの甘さで食べるとおいしいけれど。
ホットケーキ自体は「ふかふかした、小麦粉の、焼いたおいしいやつ」というシンプルさで、それがとても良かった。
シンプルでどこか懐かしくもあるんだけれど、とても繊細で、絶妙で、ごまかされていなかった。
クリームソーダはこの上なく夏だったし、ホットケーキは、「あなたとは今日初めて会ったのに、なんだか昔から知ってるみたいな感じがして、仲良くなれそうね」という味がした。私の片思いかもしれないけど。
ぺろりとホットケーキをたいらげたあと、クリームソーダを飲みながら少しぼーっとする。
すりガラスの向こうから真昼の暑さが染み込んできて、じんわり汗をかいた。夏なんだな、としみじみ思いながら、小さな氷とアイスが一緒になったものをスプーンですくってガリガリと食べる。
夏の暑さを忘れるほど涼しいところに長くいすぎたのかもしれない。いつもの夏は、外が暑いことを忘れるほど涼しくてカラッとした室内にいた。
エアコンが壊れたら夏が戻ってきた。イヤというほど近くにいてくれる。それに、私が知ってるのより何倍も強烈な暑さになっていた。
帰りに平井の駅に立って、暑いけれど爽やかな風を浴びる。
この風はきっと、私の知らないところから吹いてきている風。今立っているここも、今日このときまで、来たことがなかった駅のホーム。
いい夏が始められたなと思った。
今日がいつか「あの夏の日」になってくれる気がした。
絵日記を青く塗りたくなるような、夏の一日だった。