レモンと塩

好きなこといろいろ

愛しき春のこと

部屋の窓から見える山が春になった。

明るい黄緑色の新芽の萌えた木々が、ふわふわとしてきて、まだ枯れ木に見えるところも、うっすらとピンクがかったような不思議な色になってきて、山が全体的にやわらかくなって、重たく黒かった常緑樹の中に、明るい緑がポツポツと現れる。

産毛の生えた新芽が出てくると、雑木林の山はうぐいす餅みたいに、白っぽい黄緑のふわふわやわらかな質感になって、これが五月に近づくと、緑が少し濃くなり瑞々しく透けてきて、今度はずんだ餅のようになる。その変化が大好きで、四月から五月にかけての山を眺めるのがいつも本当に楽しみ。だから春のおやつは和菓子と緑茶にすることが多い。

庭に白い草苺の花が咲いている。五月頃になると、赤くて丸くてツヤツヤした実をつける。
鳥が運んできたのか、いつの間にか庭に生えてしまったこの草苺の花が咲けば、春の訪れだと嬉しくなるし、赤い苺の実がなれば、夏が近づいてきているとそわそわする。
茎には刺さると結構痛いトゲがあるから、草むしりをするときは気をつけないといけないけど、苺のなる庭というのが嬉しくて、結局全部抜いてしまうことはできずにいる。


春が好きだ。
冬から春になるのを見るのが、感じるのが好きだ。春が夏に近づいていくのを見るのも感じるのも好きだ。

正直に言うと、春だけじゃなく夏も秋も冬も好きだ。どの季節が来ても「ああ、今年もこの季節が来たんだな」と嬉しくなるし、その季節の空気や色や音や匂いを楽しんでしまうし、そこからやってくる次の季節を恋しく思うし、終わっていく季節と別れるのを名残惜しく思う。
過ごすのにきつい季節もあるし、身体や気持ちがしんどい季節も勿論あるけど、それでも年々、どの季節も愛おしく思うようになった。


土曜日、母との花見の帰り、電車の中で誰かからおろしたての新しい服のにおいがしていて、春だなと思った。
春の風にたくさん吹かれて、春の陽をたくさん浴びて、楽しいと思っているうちに意外と疲れて身体も冷えていて、夕方のぼんやりとあたたかい電車の空気は、とても眠い。ほとんどの人が、遊び疲れた日の夜の子供みたいに、重いまぶたで微睡んでいた。

帰り道、ライトアップされた夜桜を見るために地元のお寺を数軒巡っていると、途中にある自治会館からお囃子の練習の音が溢れていた。
五月の大祭に向けての練習に最も力が入るこの時期、夜道であの賑やかなお囃子の音を聞くと、春が来たんだなと実感する。あの音が私の街の春だ。



春が好きだ。春のすべてが好きだ。

苺と生クリームがたくさんのった春限定のスイーツも、桜の色と模様のかわいいコスメも、みんな好きだ。

日差しも風もあったかくて眠くて、仕事中なのにもう今すぐここで横になりたいと思うような、気怠い空気も好きだ。

卒業するところも入学するところも、特に新しく始まることもないのに、それでもそわそわする朝の空気も、まだあまりよく知らない校舎の、行ったことのない廊下の奥の、人のいない教室みたいな、悲しいほどひんやりした日陰の空気も、糊のきいた真新しいシャツとサイズの少し合わない制服みたいな、肌になじまないよそよそしい空気も好きだ。

春の寒さや心許なさや暗さは、いつも学生のときの気持ちを呼び起こしてきて、それを感じるたびに私は突然十代の頃の足元の寒さを思い出す。
真新しいスカートのパキッとしたプリーツが肌にザラザラして、スクールバッグをかけたブレザーの肩がずっこけて、まともな高校生になれる気がしないと思ったあの春の、すっかり出ていた膝の冷たさとか、自分の周りの世界も国もめちゃめちゃなことになっている中、転がるように始まってしまった、十代最後のいつもより暗くて寒かったあの春の、ストッキングを穿いていた足首の寒さとか。


春が好きだ。なんなら春の自分が好きだ。
春を楽しんで、春を感じて、見つけたことを細かく言葉にする自分の感性も好きだし、自分の春の思い出もみんな好きだ。春の思い出は、自分の選択の思い出で、どの選択も良かった、あの選択があったから今の自分がある、と思うから、春の思い出はつらかったことも嫌だったことも含めて好きだ。自分のためにも好きでいたい。
勿論、その当時は最悪だ大失敗だ人生終わったと思った選択もたくさんあったけど。もしかしたらこれから、全ての選択が間違いだったと思うようになるような地獄が待っているかもしれないけど。


今このとき、私は春が好きだ。

来週の仕事が地獄だとわかっていても、今年の私は今のところ春が好きだ。


つめをぬるわたし

ここ数年、爪を塗ることに夢中になっているんだけれど、そういえば私、昔からマニキュアが好きだったような気がする。

子どもの頃の、ぺろんとはがせるタイプの蛍光クリアピンクみたいな色の水性マニキュアから始まって、ボールペンみたいなかたちのマニキュアも持っていた。多分、ご近所物語のやつだった。これも鮮やかなクリアピンクだった。

小学生のとき、文化祭みたいな何かのイベントで、高学年のお姉さんがキラキラの銀のラメがたくさん入った大人のマニキュアを塗ってくれた。くさいけど、いろんな色がある、お風呂に入っても落ちない大人のマニキュア。除光液がなかったから、ボロボロになってはがれるまでずっと塗りっぱなしにしていた。

親戚のおばさんが、お彼岸のお墓参りの帰りに、コンビニで売っている大人のマニキュアを買ってくれたこともある。ミルキーなピンク色で、きれいに塗るのがとても難しかった。
『りぼん』とかに時々ついてる、ネイルシールや紙のつめみがきの付録も好きだった。


手や足の指先は身体の端っこで、なんとなく「終わりのところ」というイメージだったけど、今の私にとっては完全に「始まりのところ」だ。

普通に生活していたら顔よりも何よりも見る頻度が高いし、手指がいい状態だと大丈夫でいられる。特別ステキな状態だと、もう大丈夫どころか最強でいられる。手指がどうなっているかが、心の状態に大きく関わる。

私は自分の手が、指が、爪が大好きで、そこだけは昔からずっと、自信を持って好きだと言える。

かつては嫌味のように「働かない人の白くて細くて綺麗な手だね」と言われて、ゴツゴツのガサガサの日焼けした手になればいいのかと思ったこともあったけど、今はもうそんなこと言われてもどうでもいいと思えるようになった。
それなりに働いて、それなりに使って、でも手入れをして綺麗にしておこうと意識していて。その結果が、今ある大切な手だ。昔よりは少し指の節が太くなって、爪が平たくなって、痩せて筋が浮くようになったけど、少し大きくてきれいな、私の大好きな私の手だ。


所謂セルフネイルをするようになって、そのネイルの写真をTwitterにのせるようになったことで好きになれたのは、自分の手や指や爪だけじゃない。

セルフネイルの写真を見てくれた人に“美しさ”を褒められるとき、それは持って生まれた手指や爪の美しさであったり、意識的にケアをするという努力が生んだ手指や爪の美しさであったり、ポリッシュを塗る技術によって生まれる、つるんとムラのない質感の美しさであったり、色やパーツの組み合わせを考えたセンスによって生まれる美しさであったり、あるいは、そのネイルの写真を撮る技術やセンスが生んだ美しさであったりする。

なんと言うのか、持って生まれたものも、努力で勝ち取ったものも、みんな全て褒められているという気持ちになれることがあるし、誰に褒められなかったとしても、自分では爪を見るたびにそう思っている。

ああ、今回もきれいに塗れたな、この色私の肌に合ってるな、このラメが可愛いな、このパーツも可愛いな、つるつるで最高だな、写真にちゃんと細かいラメが写ってるな、色味も正しく伝わりそうだな……
そんなことを思ううちに、自分のセンスも好きになれたし、好きなことを続けるうちにだんだん上手くなることの楽しさ、嬉しさも思い出せた。

ずっと、自分にはこれといった趣味がないと思っていたけれど、これは十分に趣味だ。
そんなに頻繁にできるわけでもないし、ポリッシュを買い集めてコレクションしているだけになっているな、と思うこともあるけど、今のところ一番気楽に自分のペースで続けられている、自分の好きなことだ。

爪を宇宙にしたり、海にしたり、果物にしたり、花にしたり、宝石にしたり、推しの色にしたり、服と合わせたり、映画のイメージにしたり。
こんなに小さなところに色を塗っただけで、あるいは色を塗らなくてもツヤツヤにしただけで、こんなに嬉しくなって楽しくなって、心がウキウキするんだ。


これからも、自分のために楽しんで爪をかわいくしていたいな。
もう少しあったかくなったら、爪にお花をたくさん咲かせるんだ。

きっと、とてもかわいいし、そうしたらきっと、わたしはとてもしあわせな気持ちになる。



缶詰のさくらんぼをのせて


「あたしをフルーツに例えるとしたら何って訊いたの。そしたらなんて言われたと思う?缶詰のチェリーだって!“缶詰”のチェリーよ?なんか、もっとフレッシュな、レモンとか苺とかさぁ…そういうのが良かった」


去年の9月、ずっと好きだったドラァグクイーンの方が定期的にやっているバーのイベントに、初めて行った。自分の気持ちとしてはもう、“行った”なんてもんじゃない、意を決して飛び込んだという感じだった。
一人飲みもしたことのない人間が、心臓をバクバクさせて手を震わせて、中からにぎやかな笑い声の聞こえてくる扉を開いたら、憧れの人に「ひとり?よく来たねー!おいで!」と迎えられて、泣くほど嬉しかった。この歳になって、ひとりでお店に来たというだけのことをそんなふうに褒めてもらえると思わなかったし、実際私はそんなふうに迎えられたい気持ちでいた。私の怯えや覚悟を感じ取って、きっとそう迎えてくれたのだろうということが、とても嬉しかった。やっぱりこの人に会いに来てよかったと確信した瞬間だった。

飛び込んでみたはいいものの、恐らく数十分の間、私は緊張してカウンター席に座り、盛り上がっているテーブル席の方にすっかり背中を向けた恰好で、ひとりビールをちびちびと飲むだけだった。

ドラァグクイーンのその人は、私の背中側にあるテーブル席の真ん中、みんなの輪の中心にいて、楽しげに会話を盛り上げていた。

せっかく来たけれど、知ってる人もいなくて緊張してるし、ガチガチで振り返ることもできないし、面白い話も特にできないし、緊張してるし、こんなに距離が近いと思わなかったので緊張してるし、緊張していたし、更に言うと本当に緊張していた。

そんな状態のまま、背中で聞いていたのが『フルーツに例えるなら』の話だ。

テーブル席のお客さんたちは楽しげに会話をしていて、缶詰のチェリーわかる!フレッシュなフルーツのイメージはないなー加工品って感じ、などと笑っていた。
私はというと、声にできない「私は缶詰のチェリー、いいなと思います。とても素敵だと思います」という言葉を、苦いビールで少しずつ飲み込んでいた。話に入るタイミングが掴めなくて、勇気がなくて、喉がぐっと詰まる感じがした。振り向きたいのに振り向けない首が、油をさしていない錆びついた機械みたいにギシギシと軋んでいた。

あなたは缶詰のさくらんぼ。
可愛い姿、鮮やかな色。あなたがてっぺんにいないと完成しない。
そう思うと、とても素敵だ。

パフェのてっぺん、クリームソーダのうえ、赤いさくらんぼが乗せられたら「完璧!」と言いたくなる。

あなたが可愛い美しい、華やかな鮮やかな姿で現れて、「完璧!」と思う人がきっといるんだ。それって、なんて素敵なんだろう。そう思った。


缶詰のさくらんぼ、私は好きだ。
味が特別好きなわけではないけれど、あの赤さと、小ささと、かたちと、役割が好きだ。

プレゼントにかけられたリボンみたいな、クリスマスツリーのてっぺんの星みたいな、主役ではないかもしれないけれど無いと完成しない大切なもの。最後の仕上げに必要なもの。


終電までそのバーにいて、運良く自分もたくさんお話ができて、とても素敵な出会いもあったけど、結局、缶詰のさくらんぼの話はもうしなかった。

でも、帰りの電車に乗りながら思っていた。
今日、私の9月のてっぺんに、仕上げの可愛いさくらんぼがのった。「完璧!」と笑って、私は揚々と10月のほうへ歩き出した。


缶詰のさくらんぼ。
私が夢を見ているのかもしれないけれど、あの人を“缶詰のチェリー”と言った人にはそんなつもりはなかっただろうけど、私にとっては、新しくて楽しくて特別だったあの日の象徴になってしまった。
今思うと、みんなの真ん中で会話のバランスをとりながら笑っている姿は、全体のバランスをまとめるようにパフェのてっぺんにのり、つやつやと赤く輝いているさくらんぼみたいだったような、そんな気だってしてしまう。
これから先、何年か経ってあの日のことを思い出すときも、きっとそんなふうに思うんだろう。


パフェのてっぺんに、クリームソーダのうえに、私のなんでもないような日々に、缶詰のさくらんぼをのせて「完璧!」と思えたら、きっと、私はちょっと幸せになれる。


そう感じた、去年9月の思い出話。